Exhibition
展覧会
銀座 兜屋画廊
《森の精》その“木”の存在のこと
古井戸芳生の“木”。偏に“木”と言っても、その重厚感から、それがかつて偉大な巨木であったことを物語る。この木が植物として地球上に誕生し、樹木として存在し続けた年月は計り知れなく、美術作品として形を変容させた今でも、その風貌と佇まいから感じられる凄みは決して失われていない。破片として《あつみのある絵画 森の精》という作品の支持体となった“木”の素材は、樹齢200〜300年の天然木曽ヒノキであるとのことだ。破片といっても生命の脱け殻などではなく、巨木を、森の繁茂をイメージさせるだけの霊的なエネルギーを宿し続けている気がする。その存在はもはや「絵画にとっての支持体」であるという簡易的な美術用語の領域を超越し、現代において作品として生まれ変わった物体の本体であり、古井戸の表現を纏う核を成す。そして古井戸芸術が次々に創造され現実世界に生み出されていく根源、ようするに「母体」のようなものなのだろう。そのような“母体”に対してペインティングという行為で向き合う古井戸はどのような気持ちで素材と相対しているのか。気になるところである。
60年代末から70年代にかけて日本の美術の動向のムーブメントとなった“もの派”では木や石という自然物が用いられた。主体(作家)と客体(作品)の関係性を切り離し、自然物(もの)そのものの象形がそのままに展示された。これまで素材として用いられ、その姿や価値を改変させられてきた自然物が作品そのものへと置き換わったといえる。
今日でも、美術表現の中に自然物がそのままの形で登場してくることに“もの派のようだ”と思ってしまうところがある…。それはやはりもの派の隆盛以降、美術は自然物そのものままの存在価値と面白みを知ったからなのではないだろうか。古井戸の《森の精》も、自然物そのままの塊として眼に飛び込んでくる圧倒的なビジュアルと、剥き出しのままの木肌、木部の表情から強い“もの派感”を感じさせられる。しかし同時に、自然界には存在しない鮮やかな色彩面への注目と、人の手による業の気配がそれを否定部分として相対する。
“もの派”と同じく60年代後半のイタリアの先端的美術運動として旗揚げされた“アルテ・ポーヴェラ”でも従来の伝統的な画材の使用を放棄し、生の石や木を加工することなく用いた芸術家が多く登場した。アルテ・ポーヴェラの旗手の一人、イタリアの現代彫刻家ジュゼッペ・ペノーネ[1947-]の作品《木の中の木》は、木幹の年輪を一枚ずつはがしていき、木の原型を削り出し芯を表出させる。作家は決して自然物だけではなしえない変化の手伝いをし、簡易的に手を加えるだけで自然観の本質と美を垣間見せたのだろう。これは自然物と作家の対話によって引き起こされた現象であるとも考えられ、古井戸の《森の精》の造形はまさしくこの表現に近いのではないだろうか。画家として支持体に自然物を選ぶことは、彫刻的な削り出し作業とは真逆に、ペインティングを施すという“加味する”要素である。古井戸が行った素材との対話は、剥き出しの木部や年輪、全体像や凹凸の造形という自然の形と対話するものであり、素材が素材として積み重ねて来た時間と変化に、新たな延長を促した。自立した成長を止めた“木”に対して、一枚の樹皮の代わりとなる色彩面を重ね、幹の模様が進化する様にドローイングが付与される。時に自然界には存在しない直線での区分け、混色の表情が新たな表情として与えられることで、芸術作品としての時間がはじまる兆しをみせた。芸術作品としての新たな時間の経過が重なり、制作の過程において年輪の様にその表現の層はさらに重なって行くことだろう。“できあがり”は無く、古井戸芳生が生きている限り、この物体に完成形の姿があってはならないような気さえする。それが自然物と芸術が時間を共有するということであり、素材との対話のなかでいかに芸術的な直感をもってこの“木”を成長させて行くかが古井戸芳生の使命だといえる。“木”の成長は完全に古井戸に委ねられたといってもよい。
最後に、偶然にも同時代に登場した、もの派も、アルテ・ポーヴェラも、先の時代の美術に反対を唱える美術運動であったと同時に、原点への回帰に着目し、それが美術における自然観、自然を“聖なるもの”と捉えるアニミズムの精神性へと繋がっていく。古井戸作品《あつみのある絵画 森の精》における“木”も、やはり自然や生命を象徴する。巨石や古木をはじめ、大地に根付く全ての自然物には魂(霊魂)が宿るというアニミズムの自然観が強く浸透する感覚を引き起こす作品だといえる。《森の精》と名付けられた作品、この作品名は古井戸の創造の主題でもあり、むしろ作品として存在する“木”そのもののことでもある。自然物への尊敬と畏怖は日本人の東洋的な自然観を刺激し、純粋な造形との対話を促してくる。その対話とは、古井戸自身が制作という行為で向き合う作家と素材の関係、存在する作品と訪れる観賞者の関係、それぞれによって異なるものであるとも言えるが、“木”が自然物であるという根源的な理解は揺るがない。そしてそこには精霊が宿り続けているのだろう。
小海町高原美術館 学芸員 鈴木一史